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日記、コンピュータ、備忘録、書きたいことを書きたいままに。気まぐれに更新中。

2014/07/25

——先日、妹に「助けて『ある議題に対して自分の意見を述べろ』という課題があるけれど、私はこういうのが苦手で書き方が分からない。教えて欲しい」という内容の連絡が来た。

“ある議題”はこの議論の本質ではないので割愛するとして、このような問題が発生したとき、往々にして語られるひとつの問題がある。端的に表すテキストはこのようなものだ。

「空腹で飢えている人に魚を与えてはいけない。与えるべきは魚を釣る方法である」

もしも、私がこの状況に置かれたら「空腹で飢えている人に魚の釣り方を教えたところでまともなトレーニングにならない」という判断から、魚を与えた後、魚を釣る方法を教えるのだが、前述のように『意見を述べよ』という事柄に対して「こう書けば良いよ」といって答えの文章を与えてしまうのはナンセンスだ。次に同じ機会になったとき、再び妹は助けを求めてくるだろう。つまり「魚の釣り方=意見文の書き方」を教えなければいけない。そうすれば簡単に「魚=議題に対する文章」を導くことができる。

しかし、ここで少し考えた。魚の釣り方を教えるのは簡単だが、教えてしまうと「魚しか釣れなくなるのではないか」という問題だ。飢えをしのぐ方法は魚を食べるだけではない。動物を狩るも良し、食物を栽培するも良し……ここで私がバイアスを与えてしまっても良いのだろうか。いや、しかし、魚に食べ飽きたら、自然と動物を狩る方法を研究するかもしれないし(=私が教えた方法以外での意見の述べ方を考える)もしかすると私よりも凄腕の漁師になるかもしれない(=私が教えた方法をより追求しより良いものする)。

まあ、提出期限が迫ってから「どうしよう困った」というような人間であるからして、魚の釣り方を教えることで、定常的に魚を捕獲できる(とりあえず、自身の意見文がかける)人間になってもらうのが先決なのだが、こうやって盲目的に思考の方向性を摘み取ってしまっていると考えると、人に何かを教えると言うことはたまらなく難しいことだと感じた。

ちなみに、私はルアーフィッシングより、練り餌で鯉やフナを釣る方が好きです(食べられないじゃん)