PENTAX K-01を買って、写真を楽しむ機会が増えた。それ自体はとても良いことなのだが、一眼を持ち運ぶのは非常に気を使う。すると必然的にがっしりとした鞄が必要になる。
私は土日以外、大学に通っており(時々休むけど)写真に納めたい感動的な瞬間に遭遇することがある。適当な写真を撮影するにおいては、2台も3台も鞄に突っ込んであるスマホで十分なのだが、感動的な瞬間ともなると、レンズやイメージセンサの良いカメラでその光景を納めたくなる。
しかし、一眼は重たい。K-01はミラーレス一眼だが、それでも重たい。そしてレンズが大きい。コンデジとは比較にならないくらいレンズが大きい。ともなると、毎日持ち歩くのは難しくなる。
私は基本的に、鞄をふたつ使っており、片方にはノートパソコン(MBP13かThinkPadX200s)、Kobo glo(あるいはKindle Paper White)とモバイルバッテリーと水に濡らしたくない教科書参考書を突っ込み、もう片方の鞄には弁当とケースに入れたプリント類を突っ込んでいる。正直、この状態ですでに重たいし、十分にしんどい。
大学に行く以上、教科書を持たなければ意味がない。しかし、この教科書が重たい。非常に重たい。そして、たいてい教科書を使わない科目ほど、価格が高くて重たい教科書の購入を強いる。このあたりは教授が糞としかいいようがない。そして、そのような講義はたいていの場合は講義の内容も教科書の内容も糞である。
新年度で大学生になって、教科書の高さや、自著の教科書を買わせるものの、その教科書の品質があまりにも劣悪で驚いた新大学生も多いのではないかと思う。自著の教科書を買わせてくる教師で、なおかつその講義が非常に退屈なのであれば、教科書の誤植を探すと、講義を聞くよりも内容が頭に入るし、暇つぶしになるので、是非ともこの暇つぶしを活用して欲しい。
こんなくだらないことばかりを考えていると、なぜ私は大学に行っているのかという自責の念に駆られる。しばしば大学は仲間を見つける場所だとか、友達を作る場所だとか、(同世代の)人脈を作る場所だとか言われるが、それはたいてい文系の大学に限る話であり、私は腐っても理系の大学に行っている。だが、腐った理系の大学というのは、講義の品質が非常に低い(モノが多い)。
教授の身の上話を永遠と聞かされる講義だとか、全くためにならない癖して意味を感じないレポートを提出させる講義だとか、その講義に関わることすべてを受けている間「何故私はこんなことをしているのだろうか」という念にかられてしまう。
しかし、だからといって大学をやめるかと言われればまた話は別であり、大学を卒業したという印は社会に出たときにどうしても必要になる。もちろん、それがすべてではないが、見られるというのもまたひとつの事実なのだ。
仲間を見つける場所だとか、友達を作る場所だとか、サークルで遊ぶ場所だとか、そういう考えは結局のところ、講義の内容が頭に入らない(講義がつまらない)ことへの現実逃避に他ならないのではないのだろうか。もちろんそういう大学の楽しみ方はありなのだと思うが、それに自分を巻き込んでくる連中や、それで他人に迷惑をかける連中は嫌いである。
そんなことを考えていたら、もうこんな時間なので、レポートの下準備を進めながら、床につきたいと思う。
明日もルーチンワークだ。